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仕組まれた感がハンパない日本への原爆投下

アメリカの国民目線から語れば「早期の戦争終結」のための原爆投下でしたが

 

順に時系列に追っていくと日本への原爆投下は戦争の終結を早めるためのものではなかったような気がしてならない。

 

現に第二次世界大戦終結したにも関わらず、すぐに朝鮮戦争ベトナム戦争が勃発しており、まったく核の抑止力が機能していないことに気づかされる。

 

では太平洋戦争の終末期に日本に落とされた原爆とは、どのような抑止力のために投下されたのかを時系列を追って検証してみたい。

 

1945年4月にヒトラーが自殺し5月にはドイツは降伏しており、この時点で連合国と戦う国は日本だけになっている。

 

1945年2月のヤルタ会談では米英ソの三首脳は戦後処理の話し合いをしており、ドイツ降伏から90日以内にソ連は対日参戦をすること、南樺太と千島列島はソ連に引き渡されることが密約によって交わされています。

 

ただ、このような密約の存在を知らない日本はソ連と中立条約を結ぶべくソ連に特使派遣を打診しており、このような情報をアメリカは傍受、解読しており、日本が和平に向けて動き始めたことをトルーマン大統領は知っていた。

 

1945年7月16日、アメリカのトリニティー実験と呼ばれる核実験が行われ、成功の知らせはドイツのポツダムにいたトルーマン大統領に届けられている。

 

7月17日からは米英ソの首脳が対日戦争の終結に向けた話し合いが開かることになっている。

 

この時、アメリカの高官たちはソ連が参戦すれば日本は降伏すると分析していた

 

7月17日、トルーマンスターリンが会談。

その席上、スターリンは8月中旬までに参戦することを約束する。

トルーマン大統領は8月15日までにソ連が参戦すれば日本は降伏することを確信していた。

 

7月21日には核実験の詳細が大統領の元に届けられている

ところがアメリカの高官たちは原子爆弾を日本に投下しても日本は降伏しない、と分析しており、彼らは日本への原爆投下に反対していた。

しかし、トルーマン大統領とバーンズ国務長官だけは原子爆弾の使用に積極的だった。

 

アメリカが終結に向けての選択肢としては

1.本土決戦による日本の軍事制圧

2.天皇の地位を保証すること

3.ソ連の参戦

 

ソ連が参戦することが分かっていたのだから、ただ待っていれば日本は降伏するしかなかった。

 

7月24日、トルーマンスターリン原子爆弾の開発に成功したことを報告すると

スターリンは「それを日本に対しうまく使ってほしい」と述べる。

トルーマンは、この時点で日本への原爆投下をソ連のお墨付きを貰っていたのです。

 

アメリカが原爆を使うと日本は降伏してしまうためソ連ヤルタ会談の権益が失われることを恐れ、参戦日程の前倒しを指示する。

 

他方、アメリカはソ連が参戦してしまうと日本が降伏してしまうため、トルーマン大統領は原子爆弾の使用を決断してしまう。

 

早期の戦争終結のために原爆を使用したという事実がない

 

ソ連の参戦が先かアメリカの原爆投下が先か二国間で競争が始まる。

 

7月25日、トルーマン大統領は日本への原爆投下を口頭で命令

一つ目の原爆は広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに投下し二つ目は準備が整い次第、他の候補地に投下する命令書が伝達される。

 

これら四つの候補地は原子爆弾の効果を観察するため、ほとんど空襲されていない。

 

二つの原子爆弾の投下が同時に命令されているため、一つを投下して降伏しなかったから二つ目を投下したという理由は否定される。

 

7月26日、日本の降伏勧告であるポツダム宣言が発動

合衆国政府案では天皇の地位の保障の文言は入っていたが調印直前にその一文は削除される。

アメリカの高官たちも日本が降伏に応じるのは天皇の地位の保障が入っていれば日本は降伏すると分析していた。

ポツダム宣言を受け取った日本は天皇の地位の保障が載っていなかったため政府と統帥部で大論争がおきる。

 

トルーマン大統領は天皇の地位の保障を削除したため日本はポツダム宣言を受諾しないと分かっていた。

 

むしろ日本が受諾しない文面に書き換えたのはハルノート最後通牒と同じである。

 

アメリカが原子爆弾の投下をするためには日本がポツダム宣言を一度拒絶させる必要があった。

ゆえに降伏のための最も重要な一文を削除したのである。

 

ポツダム宣言の二日後、7月28日、鈴木首相は同宣言を重視する要なきものと思う、述べ政府は黙殺と朝日新聞は掲載

これでアメリカの原爆投下の口実を得ることになる。

 

一つ目の原爆リトルボーイは7月31日に投下予定だったが台風の接近により8月5日になって翌日の作戦実行が決定

B29エラノゲイがマリアナ諸島テニアン島を離陸したのが現地時間。午前2時45分、日本時間、午前8時15分、第一投下目標、広島に原爆が投下。

広島市街地中心部、上空533.4mの地点で爆発。

炸裂時の火の玉の直径、約100m、温度数百万度から1000万度と太陽の内部温度に匹敵

広島の上空に太陽が出現した状態である。

10万人から14万人が即死、その後5年でさらに10万人が死亡する。